第2回 ひとつの夢をあきらめて手にした『たくさんの宝物』(坂口農産)
富良野市山部でメロンやたまねぎなどを生産している坂口農産は、2017年「第10回コープさっぽろ農業賞」でコープさっぽろ大賞を受賞。
5代目の坂口邦夫さんがかつて、本気で追いかけながらもあきらめた夢。
その先に待っていた“今”をつづる、サイドストーリーです。
手放したラグビーボール
「こんにちは」。初めて邦夫さんとお会いしたとき、体格の良さ、首回りのたくましさに驚き、すぐにピン!と来ました。聞けば、高校時代は毎日、ラグビー部で練習に明け暮れ、就職後も富良野から札幌へ通い、グラウンドで汗を流していたそう。社会人の北海道代表として国体に出場するなど、周囲も認める実力の持ち主で「ラガーマンになりたい!」という夢を持っていました。
「でも、家業を継ぐのは暗黙の了解というか、小学生のときに父が倒れて手伝っていたこともありましたし、弟が大学に行くためには僕が継がないと…という感じで。また、結婚が早かったので、家族や将来のことを考えると、ラグビーの道はあきらめざるを得なくなりました」。
邦夫さんは20歳のときに、高校時代から顔見知りだった優子さんと結婚。すぐに最初のお子さんが生まれました。ちょうどその頃、父・清志さんから任されたのがメロンの栽培です。
「どこの家も同じかもしれませんが、男同士の親子というのは思っていても、気持ちを言葉にしないことが多い。父と僕もそう。手取り足取り教えてくれるわけではないし、わからなければ父の仕事を見て、やってみて覚える。父の方もさりげなく僕を見ていて、困っているときだけポツリとアドバイスをくれる、みたいな感じでしたね」。
現在、坂口農産の代名詞となっているメロン。ですが、託された当時、邦夫さんは農業の世界に足を踏み入れたばかり。そしてほどなく父から代を譲られ、24歳で5代目に就任。将来、農園の屋台骨になるであろうメロンの栽培と経営を、若き息子に託した父はどんな思いだったのでしょうか。
父から息子への贈り物
代を譲ってから清志さんは息子流のやり方を尊重し、徐々にサポート役へ。邦夫さんは父の期待に応える形で、難しいとされる品種のメロン栽培に挑戦したり、土壌微生物や植物栄養学など専門知識も吸収。2013年には法人化し、農地の拡大とともにベトナムをはじめとする研修生の雇用も積極的に始めます。そうした功績が評価され、受賞した2017年の農業賞。知らせがあった後、邦夫さんの妻・優子さんは清志さんのこんな横顔を見ていました。
「義父と一緒に畑にいるときに“あいつはすごい、自慢の息子だ”と嬉しそうに話していました。私だけでなく、周りの方にもそう言っていたみたいです。本人の前でだけは言わないんですけどね(笑)」。
受賞の翌年となる2018年、清志さんは病のため69歳で他界されました。「お父さまは当時どんな気持ちで、メロンの栽培を託したのだと思いますか」。私は邦夫さんに聞いてみました。
「そうですね……。ハッキリ聞いたことはないし、今となっては聞くこともできないのですが、僕が結婚するとき、父が『これからメロンをたくさん作らなきゃならない』と言っていたのは覚えています。まだ若かった僕と妻、そして生まれてくる子どものことを心配していたんでしょうね。振り返ってみれば、今の坂口農産があるのは、メロンのおかげ。畑でレストランや組合員さんのバスツアー、メロンがあるからいろいろなことができるし、たくさんの出会いに恵まれました。きっと、メロンは僕たちの未来へ向けた、父からの贈り物だったんじゃないでしょうか。僕は父に何もできなかったけど、農業賞の受賞を見せてあげられたことが、唯一の親孝行になったかなって」。そう話し、邦夫さんは目をうるませました。
受け継がれる宝物
日本代表メンバーの活躍に全国が沸き上がった、ラグビーワールドカップ2019。流行語大賞にも選ばれた「ONE TEAM(ワンチーム)」のスローガンは、邦夫さんの胸に特別、深く刻まれました。
「フィールドは違いますが、自分の仕事にも通じる言葉。周りは離農する人が増えて、うちで農地を買い取り、規模を拡大するにつれ、海外からの研修生や社員は欠かせない戦力となっています。大学に入学したばかりの息子が『卒業したら家業を継ぐ』と言ってくれているので、息子に託すまでの間、従業員満足度だけでなく“従業員幸福度”を重視して、ワンチームでより強い組織を作っていきたいですね」。
祖父が作り始めた坂口農産のメロンは父、邦夫さん、そして息子さんの手へ。時を経ながら確実につながっています。ラガーマンになる夢をあきらめて、23年経った今。邦夫さんは奥様、家族、スタッフの笑顔と、父・清志さんの残してくれた宝物に、いつも囲まれています。
取材・文/青田美穂、撮影/細野美智恵、写真協力/坂口農産